両腕を失っても夢は捨てない～「描く詩人」といわれる、口で描く画家 水村 喜一郎

水村 喜一郎（みずむら きいちろう） 画家・口と足で描く芸術家協会会員・主体美術協会会員・日本美術家連盟会員

1946年7月、東京都の下町に生まれる。父はとび職の親方で、水村は長男として家業を継ぐものと育てられていた。幼少期は活発で、路地裏を駆け回り、川で筏（いかだ）遊びをする腕白な少年だった。 しかし、9歳のある日、運命を大きく変える事故が起こる。遊びの最中に誤って高圧電線に触れ、感電し、両腕を肩から失ったのだ。 家業を継ぐことは不可能になり、日常生活のすべてを口と足で行わなければならなくなった。しかし、水村は落ち込むことなく、むしろ「どうすればできるか」を常に考えるようになった。家族や周囲の人々の支えもあり、障がいを「苦労」と感じることはなかったという。

事故後、水村の人生に新たな光が差し込んだ。それは「絵を描くこと」だった。 小学校の絵の授業のとき、先生が絵筆の柄にガーゼを巻き、口で描けるように工夫してくれた。その瞬間、水村の世界が一変した。 「手がなくても、絵が描けるんだ！」 それは何にも代えがたい喜びだった。初めて筆を口にくわえ、白い紙に色が広がっていく感覚に、胸が高鳴った。「よかったあ、なんてもんじゃない。目の前がパーッと明るく開けた感じだった」と振り返る。 絵が好きだった水村にとって、それは苦労ではなく、夢中になるものだった。思うように筆を動かせないもどかしさはあったが、それ以上に「描けることが嬉しくてたまらない」気持ちが勝った。以来、毎日絵を描き続けた。 「両腕を失ったことは不幸ではなかった。もし手があったら、絵描きになっていなかったかもしれない」と水村は語る。手がないことで「どう描けばいいか」をとことん考え、工夫し、独自の表現を確立していったのだ。

14歳で本格的に油絵を始め、17歳で公募展に入選。獨協大学外国語学部に進学しながらも、絵への情熱を失うことはなかった。 大学時代には、東京から鹿児島まで徒歩旅行を決行。45日間の旅を通して、「必死になれば、どんなことをしても生きていける」という確信を得た。この経験は、画家として生きる覚悟につながった。 その後、美術団体に所属しながら作品を発表し続け、1981年には主体美術協会の会員に推挙される。画壇での評価も高まり、個展を多数開催するようになった。

水村の作品には、工場や運河といった風景が多く登場する。これは、彼が生まれ育った下町の風景と深く結びついている。 幼少期、彼の周囲には町工場が立ち並び、煙突からは絶えず煙が上がっていた。川沿いには運河が流れ、貨物船が行き交っていた。そうした景色は、少年だった水村の心に強く刻まれていた。 代表作「夕映えの運河の工場（川口）」も、そんな記憶とつながっている。芝川沿いの工場を偶然目にしたとき、「描きたい！」という衝動に駆られたという。 映画『キューポラのある街』を見たことで、この作品を描く際にインスピレーションを得た。しかし、工場や運河の風景に惹かれたのは、それ以前から。生まれ育った環境そのものが、彼の創作の原点になっていたのだ。 水村はこう語る。 「僕は風景を描く。そこに人の姿がなくても、風景の中に人間の匂いや営みがある。それを描きたいんだ」

40代に入り、油絵だけでなく水墨画や墨彩画にも挑戦。その中で「竹紙（タケノコの皮から作られる和紙）」と運命的な出会いを果たす。 手漉きの竹紙は、ざらつきがあり、紙ごとに風合いが異なる。その不均一さが、かえって水村の表現に新たな可能性をもたらした。「紙の肌に対する筆の動きが心地いい」と語るように、竹紙は水村の作品に欠かせないものとなった。

1981年、国際障害者年の芸術展に「柿」を出展。これが当時の皇太子ご夫妻（現在の上皇上皇后両陛下）の目に留まり、その後、東宮御所で作品の注文を受けることとなった。以降、作品を高く評価され、個展にも足を運んでいただいている。 2013年には、長野県東御市に「水村喜一郎美術館」を開設。自身の作品を広く公開し、多くの人に芸術を届ける場を持つこととなったが、その際にも上皇上皇后両陛下がご来館くだされた。

水村にとって、絵を描くことは単なる職業ではない。 「好きなことなら、どんなにつらくても、貧しくても続けられる。絵を描くことと生きることは、僕にとって同じなんだ」 両腕を失ったことで手にした「絵を描ける喜び」。その喜びを胸に、水村喜一郎は今も筆をくわえ続けている。