あくまきに込められた家族の物語 ―おじいちゃんとおばあちゃんの絆
公開日:2025/04/16 更新日:2025/04/16私の祖父は、正直言って愛想がない人だった。
言葉は少なく、背筋だけはぴんと伸びて、目を合わせてもすぐに視線を外す。
それでも、おばあちゃんと並ぶと、なぜかその背中が少しだけやわらかく見えた。
一方のおばあちゃんは、いつもニコニコしていて、近所の人とも世間話に花を咲かせるような、あたたかい人だった。
ふたりが並ぶ姿は、まるで“ツンとデレ”の見本のようで、子どもの私はよくからかったものだ。
そんなふたりが毎年必ず一緒にやっていたのが、あくまき作り。
もち米を水に漬け、竹の皮を用意し、木灰を煮出して灰汁を作る――。
おばあちゃんが丁寧にもち米を包みながら「まだかな〜」と笑えば、
おじいちゃんは無言で鍋の火加減を見つめ、そっと灰汁の色を確認する。
言葉は少なくても、ふたりのリズムがぴったり合っていたのを、私は今でもはっきり覚えている。
ある年の春、おじいちゃんが体調を崩し、入院することになった。
おばあちゃんは「今年は一人で作るから」と言ったけれど、どこか寂しそうで、手つきもいつもよりゆっくりだった。
それでも、「毎年作ると決めてるからね」と言って、私と一緒に包んだ。
そんなある日、病室にあくまきを持っていくと、おじいちゃんは不器用に一切れを口に運び、もぐもぐとゆっくり噛んでこう言った。
「…お前の、味じゃなかったな。」
その瞬間、おばあちゃんの目から涙がこぼれた。
それは、叱られた悲しみでも、責められた怒りでもなくて――
「覚えててくれたのね」と、小さくつぶやいたおばあちゃんの顔は、
どこかうれしそうだった。
後で母から聞いた話では、若い頃のおじいちゃんは戦地から帰ってきて、なかなか心が開けなかったという。
けれど、おばあちゃんが作ったあくまきを黙って食べて、「うまい」と言ったのが、ふたりの最初の会話だったそうだ。
以来、毎年必ず、ふたりであくまきを作るようになった。
あくまきは、ふたりにとって言葉のいらない会話だったのかもしれない。
おじいちゃんが旅立った後、ふたりで最後に作ったあくまきが、冷凍庫の中に丁寧に包まれて残っていた。
おばあちゃんは私に言った。
「味って、いちばん残るのよ。匂いと、食感と、口の中の記憶が。
だから、味で覚えてくれたら、うれしいね」
その年から、私は毎年5月、祖母の家であくまきを作るようになった。
火加減はまだまだ未熟だけど、包み方だけは、祖母の背中を見て育ったので自信がある。
あくまきは、そんな**「誰かと作った」「誰かに食べさせた」**という思い出も包んでいる。
ただの郷土菓子ではなく、人生の一コマに寄り添う食べ物として、受け継がれていく。
あなたも、誰かと一緒に、あのモチモチぷるぷるの一切れを分け合ってみてほしい。
言葉にしなくても伝わる想いが、きっとそこにあるから。