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関原酒造「群亀」(ぐんき)ー東の横綱に選ばれたこともある由緒ある酒蔵

公開日:2025/03/18 更新日:2025/03/18
関原酒造は、新潟県長岡市関原に蔵を構える歴史ある酒蔵です。雪深い越後の豊かな自然環境と清らかな水に恵まれ、伝統的な酒造りを続けています。酒造りの基本である「米」「水」「技」にこだわり、丁寧な手仕事で仕込む酒は、淡麗でありながら深みのある味わいが特徴です。地元・長岡の風土に根差した酒造りを大切にし、地域の食文化と調和する酒を醸しています。
長岡街道—新潟の歴史をつなぐ交通の要衝
長岡街道は、新潟県長岡市から妙法寺峠を越え、日本海沿岸の出雲崎へと至る街道であり、江戸時代を通じて重要な役割を果たしました。この道は、佐渡金山の金を運ぶ北国街道と、大名の参勤交代路である三国街道を結ぶ交通の要所として発展しました。 佐渡金山と北国街道との結びつき 江戸時代、佐渡・相川の金山で採掘された金は幕府の厳格な管理下に置かれ、出雲崎の港から本州へと運ばれました。そこから長岡街道を経て長岡に至り、さらに北国街道を通じて江戸へと輸送されました。長岡街道は、この重要なルートの一部として整備され、金の流通を支える道となりました。 参勤交代と三国街道との連携 また、三国街道は江戸と越後を結ぶ主要路であり、大名たちはこの道を通って参勤交代を行っていました。長岡街道は、長岡藩をはじめとする諸藩が三国街道と北国街道をつなぐために利用し、城下町長岡の発展に寄与しました。 積雪の少ない利便性と人馬の往来 新潟県は豪雪地帯として知られていますが、長岡街道沿いの地域は比較的積雪が少なく、冬季でも移動しやすい特徴がありました。このため、商人や旅人、職人などが頻繁に往来し、街道沿いの集落は宿場町として栄えました。出雲崎は港町として発展し、長岡街道を通じて物資の流通も活発に行われました。 現在でも、長岡街道沿いには当時の面影を残す史跡や、歴史的な街並みが点在しており、江戸時代の交通や物流の要所としての重要性を物語っています。この街道は、新潟の歴史と文化をつなぐ道として、今もその存在感を放っています。
関原酒造の歴史
関原酒造の創業は江戸時代中期、享保元年(1716年)にまでさかのぼります。長岡街道沿いに位置し、北国街道と三国街道を結ぶ要所であった関原の地で、常陸国小山の庄屋が「常陸屋」として年貢米を用いた酒造りを始めたのが起源とされています。江戸時代の酒造家を記録した『越后酒造家一覧』(1867年)にも、「下除、常陸屋勝次郎」と記されており、関原酒造は創業以来、一冬も休むことなく酒造りを続けてきました。 伝統銘柄「群亀」の誕生 創業から間もなくして、長寿の象徴である亀にちなみ「群亀(ぐんき)」という銘柄が誕生しました。「鶴は千年、亀は万年」という言葉の通り、この酒を飲む人々の健康と長寿を願い命名され、関原酒造を代表する銘柄として長く愛されてきました。 明治から昭和へ—酒造りの発展と試練 明治時代に入ると、常陸屋の酒造りは小山家から外川家へと引き継がれ、関原酒造の基盤が築かれました。大正期には業容を拡大し、全国の酒造家を評価する「全国醸造家相撲番付」にも名を連ねるほどの実力を誇るようになります。さらに、北海道の釧路市に進出し「敷島酒造」を設立。のちにこの酒蔵は「福司酒造」となり、現在も酒造りを続けています。また、昭和15年には中国大陸・蘇州に関原醸造公司を設立し、海外市場にも挑戦。しかし、戦局の悪化により事業を断念し、帰国を余儀なくされました。 戦時下でも続いた酒造り 昭和10年、個人経営だった外川酒造店は「関原酒造株式会社」となり、さらなる発展を遂げます。しかし、日中戦争から第二次世界大戦へと突入すると、多くの酒蔵が休業に追い込まれるなか、関原酒造は軍需工場に指定され、航空燃料用アルコールの製造を命じられます。それでも杜氏たちは白米を使い、ひと冬も休むことなく酒造りを続けました。その証として、昭和18年には1,505石(一升瓶約15万本分)もの酒が製造された記録が残っています。 戦後の復興と革新 戦後の混乱の中でも、関原酒造は伝統の酒造りを守り続けました。昭和30年代には「群亀」のポスターに「時代は変わった、ただ…杜氏の魂は変わっていない」と記し、酒造りへの熱意を示しました。さらに、優れた杜氏たちの手によって数々の受賞歴を重ね、高品質な酒造りの伝統を築いていきました。
関原酒造 酒造りのこだわり
関原酒造は、江戸時代から続く伝統の技を大切にしながら、時代の変化に合わせた新たな酒造りに挑戦し続けています。その根幹にあるのは、 「お客様に喜ばれる酒を造る」 という信念です。 杜氏の技を受け継ぐ伝統の酒造り 昭和から平成にかけて、関原酒造の酒造りは名杜氏たちによって支えられてきました。特に昭和5年から昭和34年まで杜氏を務めた田中氏は、独自の「うるち四段」技術を開発し、ふわりとした甘みを持つ酒造りを確立。この技術は今も受け継がれ、関原酒造の酒の個性を形作っています。 また、関原酒造は 「障りなきこと水の如し」 をモットーに、清らかでバランスの取れた酒質を追求。信濃川の伏流水を使用し、 辛口でふくよか、食事に合う酒 を目指して醸造しています。これは、新潟の豊かな食文化と相性の良い日本酒を生み出すためのこだわりでもあります。 変わらぬ信念と新たな挑戦 関原酒造は伝統を守るだけでなく、現代社会に受け入れられる酒造りにも取り組んでいます。東京農業大学で醸造学を学び、東京の製菓会社で経験を積んだ代表取締役・松原氏のもと、 「辛口でリーズナブルな日本酒」 という新たな方向性を確立。 その結果、晩酌酒として親しまれる 「群亀」 のレギュラー酒は地元の量販店でも人気を誇り、多くの人々に愛されています。しかし、10年ほど前に貯蔵蔵が火災で全焼するという試練に直面し、現在は 需要の高い商品に製造を絞りながら、限られたキャパシティの中で最高の酒を造り続けています。 食と共にある酒造り 関原酒造の酒は、新潟の豊かな食文化とともにあります。特に新潟の魚介類との相性が抜群で、日本酒が 魚の生臭さを旨みに変える という特性を最大限に生かしています。そのため、地元の食卓に欠かせない存在として親しまれています。 未来へ—「地元のために、お客様のために」 関原酒造は、 地元のために、そしてお客様のために という信念のもと、 伝統と革新を融合させた酒造り をこれからも続けていきます。長年愛される「群亀」をはじめ、新しい日本酒の楽しみ方を提案することで、日本酒文化の未来を切り開いていくでしょう。
更新日04/0804/0104/07集計