ハリー牛山こと牛山清人は1899年生まれ、長野県諏訪出身。単身渡米、現地で映画俳優を目指していた。二十歳をすぎて編入したハリウッド・ハイスクールで、先生に気に入られ、そこで「ハリー」の愛称をもらう。
撮影場所に出入りしていた清人は、そこで出会った友人マクシミリアノ・ファロッツィ(後のマックス・ファクター)に弟子入りし、化粧品の成分やメーキャップの方法など熱心に勉強した。
そして、映画の撮影現場でヘアメーキャップの腕を磨いていった。
この頃には当時のスターであるチャールズ・チャップリンやマレーネ・ディートリッヒらとも友人になり、戦後チャップリンの犬を引き取って日本で飼うほどの付き合いになった。
このような経験から、現在の「ハリウッド」と命名されることとなった。
1923年9月1日、関東大震災の発生をアメリカで耳にした清人は、「国に帰って何か役立つ仕事がしたい、東京の人々に活力を取り戻したい」と考えるようになった。それで、パーマネント・ウエーブの器械をはじめ最新の化粧品、化粧道具を持って日本に帰国。
荒廃と化した東京で、少しでも女性に美しさを取り戻してほしい。おしゃれをする心のゆとりを持ってほしい。そんな願いで、1925年(大正14年)神田三崎町に「ハリウッド美容室」の最初の店を出した。
その店では、アメリカから持ち帰ったフランス製の「マーセル・アイロン」で縦ロールや、横ウエーブを自在に作ることができ、パーマネント・ウエーブをいち早く日本に導入した。
「ハリウッド」の化粧品や美容室は、当時の日本中の女性たちの憧れとなった。 当時から、ただ美容室をやるだけではなく、化粧品製造や、後進の育成としての美容学校創立など、創業時から日本の美容社会を作り上げようと言う意気込みが強かった。
マサコ(のちのメイ牛山)は、1929年18歳で山口県より単身上京し、銀座・ハリウッド美容室講習所に入所。
幼いころから人一倍美しいものや新しい物に関心があり、休みの日になるとできるだけ銀座を歩きセンスを磨いた。
美への情熱と努力を続けた結果、美容師として働きだした1年足らずで、東京の美に対して人一倍感度が高い女性たちや大女優たちにも指名されるようになり、銀座一の美容師と呼ばれるようになった。
「結婚より仕事」他のスタッフたちが結婚を意識する年齢になっても、結婚したら大好きな美容師の仕事を続けられないかもしれないと仕事に情熱を注ぎ続けた。
その結果、ハリー牛山に実力を認められハリウッド銀座7丁目店の店長を任されるようなり、その活躍ぶりはメディアからも注目を集めた。
1939年ハリー牛山と結婚し、メイ牛山の誕生となる。メイは結婚後も変わらず、ハリウッドの看板美容師として店に立ち続けた。
時は、日中戦争の真最中。「結婚したら女性は仕事を辞め、家庭に入り良き妻として夫を支える」そんな考え方が世の中の当たり前だった時代、戦争により化粧やパーマネントを自粛するよう国からおふれが出ると、ますます女性が働くという事が難しくなっていった。
その風潮にも負けずに、終戦後は疎開先の長野で牛乳配達の仕事をする傍ら「美容教室」を開き戦後の女性たちの心に明るい心を取り戻させ、家庭では5人の子どもを育てる母として仕事と家庭の両立を貫いた。
1950年、東京に戻り焼け野原となり変わり果てた荒道を歩き回り、麻布に焼け残った戦前は写真館だった3階建てのビルを買い〖Hollywood Beauty Success Studio〗と看板を掲げ、化粧品販売、美容室、美容学校を収容したハリウッド美容室を再スタートさせた。
そのことで「ハリウッド美容室」と「メイ牛山」の名はあっという間に知れ渡った。
TVの取材や料理番組、メイク番組がスタートし、日本中にメイ牛山が浸透していった。常に女性が活躍できる場があることや、女性は仕事や子育てをしながらも輝くことができるとを身をもって証明して見せた。
「お客様に何かしてあげるという気持ちじゃなく、お客様が何をしてほしがっているのか、いつも思いやるということじゃないかしら。
そのお客様のため、好きな人のためって思うと仕事は楽しくなるし、楽しく仕事をしていると、お客様が来てくださる。
繁盛の秘訣があるとしたら、そんなことだと思うわ。」メイ牛山はお客様ファーストの第一人者だった。
忙しく仕事にはげむ一方で、メイは1歩でも家の玄関をまたいだら、母になり妻となった。
健やかな肌や体を作るためには、食生活の改善し腸内環境を整えることが大切だと気が付き、自然食の勉強をした。
化粧品会社の経営者にもかかわらず「化粧品では美しくなれない」という健康食のお勧めの本まで出版してしまい、美容業界からは異端児扱いされた時期もあった。
それでも女性が活き活きと美しくいるためには、肌、体、そして心の三要素が大切なのではないかと考えるようになり3大排泄美容法(現在のSBM理論)を説いた。
Skin:肌 皮膚を外側から綺麗にし、清潔に保つこと。
Body:体 腸内環境を整え、排泄をスムーズにすること。
Mind:心 悩みや暗さ、ストレスを解き放つこと
1986年 六本木ヒルズ開拓がはじまり、ハリウッド本社ビルや住んでいた自邸、丹精込めて育ててきた庭など全てを取り壊すことが決まった。
メイは、その事実を誰よりも重く受け止め落胆するも、新たに自社ビルを建てることを決意する。
その当時の取材で、メイ牛山は「人間変わることを恐れてはいけないわ。変化することを拒んだら、年老いていくのよ。わたしは新しいことが好きね」と力強いコメントを残している。
2003年 ハリウッド本社ビルの跡地に、新しい自社ビル「ハリウッドビューティープラザ」が完成。
地下三階、地上十二階建て、館内には本社機能と美容学校、サロン、商業店舗の全てが収容された。
ハリウッドビューティープラザの前庭には、様々な品種を集めたバラ園があり、度々音楽家を招いて、歌や楽器演奏を披露する場となり、ドイツのアーティスト、イザ・ゲンツケンの巨大なるバラが1輪、愛と美のシンボルとして、凛とそびえ立った。
「男と女はちがうのよ。要するに、大事なことは“女のプロ”になるということよ。専業主婦であろうと、仕事を持とうと、プロ意識をもった“女”になるの。それができたら、日本中の女性はみんな、もっと楽しく、もっと美しくなるわ。」メイは美容家として女性として生涯現役を貫いた。
95歳にして演台に立ち、講演することもあった。
そんな功績が認められ世界的な雑誌Vogue Japanの「世界のパワフルウーマン100人」に選ばれた。
イギリスではサッチャー元首相、女優のマレーネ・ディートリッヒ、日本人では与謝野晶子らと並び、パワフルに生きる世界の女性百人のひとりに選ばれた。
そして、亡くなる直前までブログ(「メイ牛山の美容百貨」)を書き、日々考えていることや、戦前・戦後のことを記事にしていた。
美容家、経営者、教育者、女性、母として生き抜いた彼女の愛情の深さや情熱は、現在のハリウッドの社員の心にも受け継がれている。
メイ牛山亡き後のハリウッドでは、現代にもフィットする化粧品の商品開発や、オーガニックにこだわった健康食品の開発・販売をしながら、障がいのある人々の支援活動や、日本のオーガニック農家の支援も同時に考えるソーシャルビジネスとして社会問題の解決に取り組んでいる。
そして、今も変わらずハリウッドのパッケージにある信頼のブランドアイコンは、お団子ヘアーのメイ牛山のシルエット。
彼女は常々こう発言した。
「女はいつも楽しく、美しく」
また、メイ牛山はこうも言い残している。
「社会が不安になると、一番最初に影響受けるのは社会的弱者の女性や子供ね。女性がお化粧したり、おしゃれできる社会は平和の象徴ね。社会が安定しているってことなのよ。女性がキレイな国と言うのは、言い換えれば戦争のない平和な、成熟した社会なの。」 明治時代に生まれ、関東大震災や2つの戦争、多くの災害を乗り越えてきた経営者ならではの哲学なのだろう。
2025年でちょうど創業100周年。
ハリウッドグループは、先人や多くのファンの応援に感謝しながら、美容を軸に、日本中さらに世界中の女性、そして女性だけでなく男性・シニア・障がいのある人たち、未来の子どもたちに向けて発信しつづけていく。
Find the true you, like never before.
見つけよう、本物の新しい自分
100年。そして次の100年にむけて。